東京学芸大学アメリカンフットボール部SNAILSの公式BLOGです。
常に正しく成功できる人間などほんの一握りいるかいないかだ。
そう、人の人生とは失敗の連続だ。
多分そう。
でないと僕の説明がつかない。
LB佐藤悠(2年)だ。
同じ人六角牛に入りて白き鹿に逢えり。
白鹿(はくろく)は神なりという言い伝えあれば、もし傷つけて殺すこと能わずば、必ず祟(たたり)あるべしと思案せしが、名誉の猟人なれば世間の嘲りをいとい、思い切りてこれを撃つに、手応えはあれども鹿少しも動かず。
この時もいたく胸騒ぎして、平生魔除けとして危急の時のために用意したる黄金の丸を取り出し、これに蓬(よもぎ)を巻きつけて打ち放したれど、鹿はなお動かず、あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。
数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくもあらず、全く魔障の仕業なりけりと、この時ばかりは猟を止めばやと思いたりきという。
(柳田國男 遠野物語より引用)
これは柳田國男の遠野物語の一節だが、これについて、次のような解釈がある。
白鹿とは自然に対する人間の信仰が生んだ象徴的な存在だ。
これを猟師は盲目に信じているのか。
そんなことは無い。
なぜならその白鹿が、信仰の生んだ幻影だと分かっているからだ。
だからこそ、その考えだけでなく、行動でもって、つまり大事な黄金の丸で打ち掛けてその信仰を試そうとしている。
しかし、その鹿は石だ。
長らく山に入っていた猟師には見間違うはずもない。
全く魔障の仕業だと。
そう、思うわけだが、猟は止めばやとは思えど、止めはしない。
これは、何が言いたいか。
それは理性と信仰は抵触しないという事だ。
文明の届かぬ山奥の山人にはそういった確信があるのだ。
と、私の崇拝する小林秀雄は説いている。
現在、神の存在などありはしないなど当然分かっている。
しかし、どれほど理性でそう確かめようとも、家の近くの地蔵でタックル練習しようと思った時、躊躇われるように、その地蔵に神性を感じてしまう。
やはり、理性と信仰は両立し得る。
現代人が仮にこの視点を失ったとするならば、その原因は論理と非論理という二元論的発想の功罪にあろう。
対立する2つの観念を作り出せば、そのどちらにも属さない曖昧さを嫌い、排斥せざるを得ない。
そうすることで論理的なものの見方ができることは間違いない。
しかし、その両者の間の漠然としたものに出会った時どうしてもそれを処理できないということになる。
そこで、論理は破綻を迎えるだろう。
我々はどうやら不確かさの中に生きているのだ。
追記:勝手にゴーヤとキャベツ植えた。学校のどこか。
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